2月も半ば
 花道も流川もいない千葉市立稲毛高校バスケ部にいた(仁尾智)

 いま制作中の部活動短歌のひとつ。

 初めてのディズニーランドは雨だった 男子三人 童貞だった(仁尾智)

 あららくんの『童貞だより 8月号』に触発された。直球過ぎる。

 つかないというか、つけないだけだけど嘘を知らない猫には勝てない(仁尾智)

 よく「動物は嘘をつかないからいい」なんていう人がいる。
 「つかないっていうか、つけないだけじゃん」と思うし、「ついてても気づかないだけじゃん」とも思う。いや思っていた。
 でも最近は、嘘をつく能力がないことと、能力がありながら嘘をつかないことには、別に差はないような気持ちになっている。
 知らないことは、きれいなことだ。
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by satoshi_ise | 2008-02-11 08:03 | 短歌 | Comments(10)
Commented by coldleaf at 2008-02-11 11:47
あぁ、僕は仁尾さんの「学生時代」の匂いのする短歌、特に好きなのです。部活動シリーズわくわくてかてかして待ってます。
Commented by めぐた at 2008-02-11 19:07 x
私は流川が好きでした・・・(。・・。)ポッ

最近まで・・・犬も嘘つかないと思ってました。
でもうちの子を見てたら、嘘ついてるようなときがあるんです。
目をね、そらすんですよ。。。ちょっと怪しいんです^^;
Commented by satoshi_ise at 2008-02-11 23:22
アキモトさん
僕は中学時代、毎日殴られて、口の中がいつも切れているような部活動だったので、そういうところで根性なしがどうなっていったか、を書けるといい、と思ってもうずっと悩んでいます。
あと、ずっと殴られている連作もどうかということで、後半を高校の頃の部活動の様子にしようかと。
割と多くの人がそうであると想像しているのだけれど、高校の頃って、いろいろ恥ずかしいけれど、いろいろ振り切れていた気がして、くだらないことをよく思い出します。そういうのを連作にしたい。
Commented by satoshi_ise at 2008-02-11 23:26
めぐたさん
僕は、海南大付属のスリーポイントシューター、神宗一郎が好ましい。
動物は嘘をつく、というか取り繕う感じはときどきあるような気はします。
Commented by coldleaf at 2008-02-13 06:32
僕は世代的に一回り下(75年生まれ)なんで、学校では一番怖い先生のいるとこ(野球部)だったんですけど、せいぜい平手どまりで、それでさえ、教師にとっては既に始末書になるような時代でした。

ちょっとわき道にそれますが、「殴られる」というテーマで書かれる、というのを読んで、思ったことがあります。

短歌って、とくに「ケータイ短歌」とか見ていると、「ああ、あるある、共有できる」っていう方向を目指して作ろうとする人が大半を占めてる、という印象を僕は受けることが多いのです。それは悪いことではないだろうけど、でも「共感」と「共有」は同じことじゃない、いつも「共有」をめざさなくたっていいだろう、とも思うんです。
Commented by coldleaf at 2008-02-13 06:33
[続き]

というか、「みんな人それぞれ違った人生を頑張ってきたんだな」みたいな、一歩引いた共感の仕方が、僕個人にはもっとしっくりくるのだと思います。「大人に殴られる」みたいなことが(幸いにも)稀有になった時代に生きてきたからこそ、僕は「中学校と血の味」みたいな、仁尾さん(と仲間たち)だけが理解してるようなものが、逆に読んでいて強く印象に残ったりするし。そこに「生身の他人がいる」みたいな、力強い存在感で。

とりあえず、まとまり、というのの片鱗でもあればいいなと思いつつ「送信」ボタンを押してみています。
Commented by satoshi_ise at 2008-02-13 22:59
たぶん僕なんかが中学生の頃が校内暴力全盛期で、その対抗勢力としての「体罰」が世間では意外と寛容に受け入れられていたのだと思います。
……でその振り子がある方向に振り切れたのでこんどは逆に振れ始めたのが、アキモトさんとかの世代なのではないか……と想像します。

その人がどこを目指して短歌を書くのか、はともかくとして、僕は「自分が書くべきことかどうか」は割と気にしています。それは読むときも同じで、「その人が書くべきことかどうか」は、なんだか気になる。

誰かに何かが届くとしたら、それは書くべきことを書くべき人が書いたときだけではないか、と思うから。
Commented by coldleaf at 2008-02-14 09:24
>>僕は「自分が書くべきことかどうか」は割と気にしています

>>誰かに何かが届くとしたら、それは書くべきことを書くべき人が書いたときだけではないか

この二点に関して、本当に、目からうろこというか、ここで仁尾さんの仰ったことって、僕自身が「どんな短歌が好きなのか」っていうことを、それこそ「短歌」みたいな端的さでバサッと表現したものなのだ、と、読んでみて、少し考えてみてから、気が付きました。

(というかこれは短歌に限らず、僕の芸術表現一般の好みについても当てはまるのですが、まあそれは置いときます。)

何を今更というアレですが(笑)、僕は文章や思考を簡潔にまとめる、というのが苦手で、図々しい性格なんで送信はちゃっかりとするものの、僕のレスのまとまりのなさには申し訳ないとも思ってはいるんです。今みたいに、僕のファジーなグダグダ文に、それでも真摯な直球レス返して頂けたのは、本当に感謝してます。
Commented by coldleaf at 2008-02-14 11:26
補足です。

「自戒の銘」としての『自分が書くべきことかどうか」は実践するのが自分自身なのである意味「簡単」に理解できることですが、他人の作品を評するとき、『その人が書くべきことかどうか』というのは、僕は「作品自体のパワー」が、僕にそれを作った「人間」の存在感を感じさせるだろうか、という点で、そう思っているのだ、と思います。要は、

「作品」 → 「作者への思い」 という構図は一緒で、

「作者に対する予備知識」 → 「作品に対する期待感」
(この後者の構図は、「芸術表現」としては反則かもしれないとも思う)

とはやはり違う。

だから、これはある種の思いこみであると言われればそれは否定できません。でもやはり「個人」(=必ずしも個性ではない)をものすごく痛烈に感じるものって、映画でも文章でもなんでもいいけど、そういうものに出会うのが、僕は他人の「表現」に触れる、という行為において、自分にとって一番嬉しいことだと思っています。
Commented by satoshi_ise at 2008-02-15 00:30
>「作品自体のパワー」が、僕にそれを作った「人間」の存在感を感じさせるだろうか
確かにまるで見知らぬ作者の作品について「その人が書くべきことかどうか」は、わかんないですよね。
つまりは作品が作者に「沿っている」と感じるかどうか、なのだと思います。
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