エレベーター(2003.09.13)
 たぶん、僕を助けてくれた彼女は、誰だったのだろう。



 ほとんど眠れずに朝を迎え、テレビをつけた。
「昨夜遅く、関東地方で強い地震が発生しました。地震の強さは、マグニチュード……」
 昨夜のことを、再度一生懸命思い出そうとしていた。せわしないときの記憶というのは、なぜこうも曖昧で頼りないのだろう。起こったことは覚えていても、起こったことにまつわることが抜け落ちてしまっていて、しかも大事なことは得てして抜け落ちてしまった方にある。

 昨日は疲れていた。クレームの処理に追われ、面白くもない仕事が終わったのは、深夜だった。27階にあるオフィスを出て、エレベーターに乗った。1階のボタンを押したあと、壁にもたれて点滅しながら移動していく数字をぼんやりと見上げていた。
 21階で、エレベーターが止まった。
「誰だよ。こんなに遅くに……」
 自分の家のチャイムが鳴ったわけでもないのに、つかの間の1人を楽しむ時間すら奪われた気になって、もたれていた姿勢を正しながらぼやいた。 21階から乗ってきたのは、女性だった。女性はフワリと石けんのようなにおいを放ち、エレベータの奥へ進んだ。他の人が乗ると、エレベーターは途端に息苦しい空間に変わる。早く1階に着け、と思う。
 エレベーターが8階を通過している辺りだった。後ろの女性がユラリと動いた気配がした。とっさに振り返るのは、なんとなく無粋な気がして、足下に視線を落として、後ろの気配を察知しようとした。そのときにはもう、彼女のつま先が僕のかかとの辺りに見えた。「ん?」と思ったときには、彼女の白いというよりは青くて細い腕が、両脇からを伸びてきていた。背中から抱きつかれた、と思った。
「なんすか?」
 冷静を装い、振り返らずに、そのままの体勢で、背中に密着している彼女に尋ねた。彼女は答えなかった。答えない代わりに、彼女はさらにおかしなことを始めた。僕の脇から伸びた腕をしきりに動かし、目の前にある各階のボタンをデタラメに押し始めたのだ。
「ちょ、ちょっと」
 たまらず振り返った。彼女は、水色のノースリーブのストンとしたワンピースを着ていた。スラリとしていて、眼がきれいだった。確かに、一瞬彼女に見とれていた。我に返って、彼女の行動の真意を問おうとしたそのとき、エレベーターが止まった。彼女がデタラメに押したボタンのせいで、7階に止まったのだ。ドアが開いた。僕は「やれやれ」という風情で、再度彼女に背を向け「閉める」のボタンを押そうと指を伸ばした。
ボタンに指が届くか届かないかのとき、今度は「ドゥン」と背中から体当たりをされたような衝撃を受けた。僕はよろけてエレベーターからはじき飛ばさた。
「あああ、なんなんだよ、こいつは」と、心の中ではこいつ呼ばわりになった彼女に、振り向きざまに言った。
「おい、あんた、いい加減にしろよ。なんなんだよ、いったい……」
 怒鳴っている最中に、7階のエレベーターホールの床がヅンヅン、と小刻みに震え始めた。「?」と思っている間に、彼女を乗せたエレベーターの扉は閉った。
 次の瞬間。「グラリ」と建物が揺れているのか、自分が揺れているのか分からないほどの振動だった。僕は床にへたり込んで、動けなかった。波のような揺れがおさまるのを待った。そのときにはエレベーターの彼女のことなど、すっかり頭から抜け落ちていた。

 そこからの記憶はさらに曖昧で、うまく時系列に並べられない。
 なんとかビルの外に出たところで、彼女の存在を思い出し、再び1階のエレベーターホールに戻った。集まって今しがたの揺れについて不安げに話している人たちに彼女の服装や特徴を伝え、そういう人を見なかったか聞いてみたが、誰も知らなかった。ふと思い立ち、彼らに聞いてみた。
「このビルの21階には、どこの事務所が入っていましたっけ?」
 彼らは、不思議そうに顔を見合わせ、そのうちのひとりが言った。
「21階? 今このビルの20階から23階までは、どこも入っていませんよ」
 僕は、ぼんやりとその場にへたり込んだ。

 交通機関が麻痺している中、電車で15分ほどの距離を歩いて帰宅した。
 元々、どこに何があるのか分からないような部屋だったから、部屋の中は地震の前とさほど変わっていなかった。ベッドに倒れ込み、まだ揺れているような、少し乗り物に酔ったような心地になりながら考えていた。
 あのとき、彼女だけが地震を察知できたのはなぜだろう。彼女がおかしな行動を取っていたときには、すでに揺れていたのだろうか。僕がその揺れに気づいていなかったのだろうか。いや、それはない。僕は地震の揺れにはかなり敏感で、誰よりも先に気がつくタイプだ。そもそも彼女が地震に気がついたのなら、なぜエレベーターから降りなかったのだろう。それとも彼女の奇行と地震には何も関連性はなく、単に偶然が重なっただけなのだろうか。彼女は事務所も何もない21階で、いったい何をしていたのだろう。彼女は地震の後、どこに消えてしまったのだろう。
 いくつもの疑問といくつかの推測が頭をよぎる。でも、それぞれがあまりにも断片的だった。そして、僕は疲れていた。それらの断片を自分なりにうまく繋げて、納得のいくストーリーにすることが途方もなく難しいことのように思えて、考えることを途中で止めた。

 たぶん、僕は彼女に助けられたのだ、とだけ思うことにして。

(完)
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by satoshi_ise | 2008-12-14 16:22 | その他 | Comments(3)
Commented by 外国人 at 2008-12-15 14:23 x
これは季節外れの怪談ですか?
それとも.....?
言箱での掲載でしたよね?
Commented by satoshi_ise at 2008-12-16 00:06
外国人さん
わー、よく覚えてますね。そうです。初出は「言箱」に載せていました。先日家に戻ったときに、久しぶりに家のeMacを起動したら、この文章が出てきて、懐かしくなって掲載してみました。
Commented by satoshi_ise at 2008-12-16 00:07
こういうオチも何もない話を好んで書いていました。
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